エス・ケーの『こみっく・パ〜ティ〜』報告


「この作品はフィクションです。劇中に登場する団体及び個人は実在する団体、個人とはなんら関係ありません。また演出上の要請により、一部登場人物が危険な行為、または道義的に反する行為等を行っていますが、そのような行為を実際に行いますと周辺に迷惑が及ぶだけではなく、それを行ったあなた自身にも重大な危機を及ぼす可能性があります。くれぐれもそのような行為をなさらぬよう、同人誌即売会及び創作、ファン活動を楽しく行ってください。
かしこ」

 右がゲームを始めてからすぐに流れるメッセージである。

 「コミックマーケット」(通称「コミケ」)と呼ばれる同人誌即売会は、どんどん規模を増して、今や二十万人以上を動員しているらしい。そのうちの何人が『ライ麦畑』を読んでいるのか、なんてくだらない計算はともかく、『こみっくパ〜ティ〜』(通称「こみパ」)なるゲームは、コミケを元にした恋愛シュミレーションゲームである。
 二十万人余りが参加する「コミケ」であるが、世間の風当たりはそれほど優しくない。すぐに思い浮かべるのは「宅八郎」みたいな「おたく」である。「現実の人よりも架空の人しか愛せない」性癖を持つ人々でも良い。そんな偏見を打ち破るためにつくられたのが「こみパ」というゲームであると、ぼくは考えた。
 が。
 プレイしていて、ぼくは何かの違和感を覚えた。それは「これはあちら側の人だ」というような簡単なものではない。つまり、ぼくが描いていた観点から物語が設定されてなかっただけだ。その要因はこのゲームのヒロインである「高瀬端希」に全てあるのだが、そのことについては、彼女の項目で述べる。

 このゲームをプレイするには、まず二つの立場に別れる。一つが「コミケ体験者」、もう一つが「コミケ未体験者」。さらに大幅に分けると「コミケに好意を持っている者」「コミケに悪意を持っている者」となる。ぼくの立場を言えば、コミケは未体験であるが、悪意を持ってはいない。ぼくの周りにはコミケに行っている人は多いし、その人がそれだけで異常だと思えるほどの要素をぼくは知らない。
 例えば、佐野元春のコンサートがある。そのコンサートに五千人が集まったとする。その全てがエス・ケーみたいな性格だと断定することはできない。それと同じようなものだ。
 ただ、コミケに偏見を抱くことは、それほど悪いことでもない。ランボオの詩の中に「商人よ、あんたはニグロさ。裁判官よ、あんたもニグロさ。将軍よ、あんたもニグロさ」とニグロ(黒人のこと)という単語を乱発する箇所があるが、今の時代だったらこれは芸術とは認められないかもしれない。ちなみに、ランボオはこのとき、黒人のことをほとんど知らなかった。善と悪を判断する基準が難しい世界の中で、未知なるものを悪と決めつけるのは、それほど間違っていることではないと思う。問題は自分が間違ったと思ったときに、素直に意見をひるがえす柔軟性を持つことだ。無論、企業に属するようになると、そう簡単に物事を進めるわけにはいかない。ある程度の役割を分担しなければ、分類が不可能になり、計画を発展させることが難しくなるからだ。しかし、ありがたいことに、ぼくはまだ、どの企業にも属していない。
 とりあえず、ぼくはこのゲームで「コミケ」を判断しようと思わない。「コミケ」という社会現象に対する一つの反応であると受け止めているが、それはこのゲームの娯楽性とは無関係であると考える。

 このゲームの主人公は、美術の才能はありながらも、美大の受験に失敗して私立の大学に入ったという大学一年生である。主人公は、友人である九品仏大志から「その才能を漫画に生かせ」と薦められるようになる。その魅力性を教えるために、彼は主人公と、主人公の女友達である高瀬端希を引き連れて「こみパ」の会場へと向かうわけだ。主人公は二十万人の群集を引きつける「こみパ」の可能性に圧倒され、同人漫画家を目指すようになる。逆に高瀬端希はそんな主人公が「おたく」になると怖れ、それを止めようとするが、主人公は美術の才をもっとも手っ取り早く多くの人に見せることができる「同人漫画家」という魅力には勝てない。こうして、主人公は「こみパ」に参加するようになり、そこで様々な出会いをするわけだ。

 ゲームのシステムはひどく単純なものだ。能力は「創造力」「画力」「仕上げ技術」「カラー技術」「出店センス」の五種類で、それぞれ「絵コンテ練習」「ペン入れ練習」「仕上げ練習」「カラー練習」「バイト」をすることによって数値が上昇する。それが高くなると、それだけ本も売れるようになる。簡単なものだ。普通にやれば、二千部売れる同人作家になる。そうすると一ヶ月で百万以上の収入を得ることになり、印刷料を差し引いても五十万円をゆうに超える純利益がある。ぼくもこれなら、同人漫画家として生活してもいいぐらいだ。
 さて、問題となるのは、最初に次の「こみパ」に出す本のジャンルを選ぶことである。ちなみに、このゲームでは一ヶ月に一回「こみパ」があり、ゲーム期間は一年であるから、合計十一回の同人誌をつくらなければならない。もし、締め切りまでに間に合わなければ無条件でゲームオーバーとなる。
 どうして、このジャンル選択が問題となるかといえば、選択肢が限定されているからである。大まかにわけると「漫画」「ゲーム」「創作」となっている。前者二つは既存の作品のパロディー本である。そして、さらにジャンルに別れる。ぼくはもちろん「創作」を選ぶ。そこには八個のジャンルがある。「スポコン」「恋愛」「SF」「ファンタジー」「歴史」「オカルト」「アクション」「ギャグ」。さて問題。ぼくが徳島大学文学クラブで書いている小説はどのジャンルに属するのでしょう?
 しかも、製作するにあたって、ストーリーを考える期間が全くない。「原稿を描く」コマンドを選べば、さっさと描き始める。これはどう考えてもおかしい。「ゲーム」のパロディーを描くにしても、何かしらの方向性と資料研究は欠かせないはずだ。まあ、こういうことはゲームのための便宜的なものだろう。ゲームにはルールがある。現実社会では帰納的なルール、つまり最終判断の基準としての法律があるだけなのだが、ゲームではルールが前提条件としてある。要するに「努力は必ず報われる」のがゲームであって、そうでないのが現実である。まあ、このようなことを書いているのは、ただ、ぼくが文章による創作活動をしているせいにすぎない。この「こみパ」はそもそも恋愛ゲームである。同人誌活動というのはその付加的なものにすぎない。一ヶ月に一人で84ページもの漫画を描くという現象も、ただのゲームだとあきらめるしかない。

 このゲームには女の子が八人登場する。その内訳は主人公の幼なじみが一人、同人漫画家が三人、「こみパ」スタッフが一人、印刷屋が一人、コスプレイヤー(この単語を知らない人は新井理恵の『×』(ペケ)という漫画を読んでもらいたい)が一人、声優アイドルが一人である。ちなみに、もう一人隠しキャラ的扱いででてくる女の子もいるのだが、彼女に関しては、このエッセイでは全く取り上げない。
 このなかで明らかに年上なのは「こみパ」スタッフの牧村南女史である。しかし『To Heart』と同じように、この人もあまり年上らしくない。「ヒモ」になりたい症候群の人には、この会社のゲームはあまりお薦めできない。女性に圧倒的優位な立場で恋をしたいという人には、このゲームは大いなる参考となるだろうが。
 では、個々の女の子について語ることにする。恒例のA〜E評価は、今回人物評価とシナリオ評価にわけさせてもらう。人物評価は容姿だけではなく、言動や性格も要素に入っていることをお断りしておく。

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