誉めすぎですか? いいえ、そうは思いません。このゲームから七瀬以外の18禁シーンを取り除けば……平成という時代が後世に誇れる文学作品のひとつと言ってもいいと思います。
「ゲームが文学たりうるのか?」その疑問に対する答は、こう。「400年ぐらい前に小説が文学だと言おうものなら『散文を文学とは言えない』なんて笑われたらしいですよ」
まあ、文学かどうかだなんてどうでもいいことです。重要なのは、このゲームは面白いということ。面白いからこのゲームを先に進め、いつしかストーリーに入り込み、ラストで涙した。違いますか? まず面白いこと、それが重要です。
そしてかように面白いゲームをやった結果、人によってはこのゲームから教訓を得るかもしれない。このゲームをやったことによって、考え方が少し変わったかもしれない。……文学とは、そういうものです。読者の生き方に何らかの影響を与える可能性を持った作品、それが文学であります。少なくとも私はそう思っています。文学だから面白くなくていいという理屈にはなりません、退屈な作品を真面目に読む人など少数派なのですから。ここを勘違いしている人だらけだから日本の文学は衰退していると思うのですが、まあそんな話はさておき。
さてこのゲームが文学的だとするのなら、このゲームをプレイした人はどのような教訓を得るでしょうか? 私は「未来に向かっていく勇気」だと思います。このゲームのヒロイン達そして浩平は、誰もがどこかが成長しないまま、子供の頃から何かを引きずったままこの年になりました。そして他者との交流によって未来へと向かう勇気を得、そうして生きていきます。それを見たプレイヤーは、同じように前向きになろうと思うかもしれない。三日もすれば忘れるかもしれませんが、ほんの少し自分の中で何かが変わったかもしれない。それで充分どころか、大成功です。文学なんてものは所詮その程度、読んだだけで次の日から全人格が変わる文学なんてものは、世界中どこを探したってありません。ほんの少しの変化の積み重ね、そうして人間は変わっていくのです。
さてこのゲーム、みさおがどうこうということを知った上で、もう一度最初から注意深くプレイし直してみてください。恐ろしく巧妙に張られた伏線に気づくでしょう。
茜の名を最初に呼ぶシーン、浩平は「(名前を)忘れられると悲しいもんな」と言っています。これを聞いて茜は何を考えたでしょうか。
長森との朝のひとこまで、昔一緒にお風呂に入った仲云々という発言の時、記憶の中での長森がいつでもおもちゃを持っていた、とモノローグにあります。これは、みさおと長森の関係を暗示していると言えないでしょうか。みさお=長森?
このような初期から、まんべんなく伏線が張られているということはどういうことでしょうか。制作側が、最初からゲーム全体の完成像を把握した上で作っているということです。行き当たりばったりでなく、言わんとしていることを最初から見据えて描かれているシナリオ。マルチエンディング隆盛の現在、肌ゲーの世界では驚くほど少数派です。
つまりこのゲームは、高度な統一感を持って作られています。確かにこれは、言ってしまえば「どのシナリオも同じことを言ってて同じに見える。結局のところ、成長しなかった子が成長を始めるまでって話でしょ?」という批判を受けるかもしれません。
しかしこのゲームの場合、最終的に同じことを言っているだけで途中経過はどれも違います。つまりひとつのことを、手を変え品を変え言っているわけです。このような方法をとった方が、より印象は強くなるのではないでしょうか。
そして繰り返しになりますが、このゲーム最大のアドバンテージは面白くプレイできること。プレイヤーは「澪が澪が〜」などとハートマークを飛ばしつつだったり「ううっ、不憫だよなぁ七瀬」などと含み笑いをしながらプレイして、気がついたら泣いていて、終わった後にはなんとなく何かを考えている。だけど決して教訓に偏らず、面白いエンターテイメントであることは最後まで見失わない。この微妙なバランスが、ONEのいいところなのではないでしょうか。
さてシナリオ別評価ですが、各ヒロインのシナリオとは別に「みさおとは何か」を用意しました。このゲームの明らかに核となるみさお、それをまずはじめに読んでください。(もっとも、まだそこしかないんですが)